☆会津藩主が三代に渡って発展させた会津木綿 ―着物雑学―

今回は福島県の特産品、会津木綿を題材にして、木綿の着物の経緯をさらに詳しく掘り下げましょう。前回のブログ「むかし日本各地で庶民が着ていた着物は今」も合わせてご覧いただくとより理解が深まりますよ。

 

会津木綿は、福島県の特産品で明治末から大正時代の最盛期には大小合わせて30社ほどの機業場があったそうですが、現在は減少し、製造しているのは2社とも1社とも言われています。その貴重な伝承をされている会津若松市の山田木綿織元さんを訪ねました。今回も現地ルポです。

明治38年(1905年)創業の機業場には、時代を思わせる木製の織機が木造の工場にぎっしり。表には手作りの品を売るお店も構えておられて、色とりどりのカラフルな縞模様の会津木綿の品々が並んでいました。

 

ーー会津木綿の歴史に納得ーー

 

1590年、鶴ヶ城の領主蒲生氏郷が、その前任地であった伊勢松坂(三重県)の「松坂木綿」の製造技術を伝えたのが始まりとされています。

その後さらに、江戸時代初期に、加納嘉明がやはり前任地の伊予松山(愛媛県)から織師を招き、伊予絣の織物技術と「伊予縞」と呼ばれる縞柄を基調とした会津木綿が生まれたそうです。

 

さらにさらにその後、1643年に藩主となった保科正之公が、綿花栽培と木綿織物の生産を奨励します。雪が深く寒さが厳しい福島県の農民たちに、着物がたくさん必要と考えたのかも知れませんね。農家の女性達の冬の副業だけでなく、藩士の妻や娘達の内職仕事としても盛んになり、多く生産され、会津の特産品として広く普及して行ったそうです。(山田木綿さんのパンフレットより抜粋)

これを知って、なるほど!と納得しました。それぞれの高名なお殿様が、たまたま前任地が木綿の産地で、だから職人を連れてきて技術指導させる事が出来たのです。

福島県には自然が豊かで美味しい物がいっぱい採れる広大な土地があります。当時の農民は麻を着ていましたから、寒い冬は辛かったでしょうけど、丈夫で暖かい綿織物を知ると、どんどん作りたくなるでしょうし、お殿様に奨励されればますます頑張るというものです。

そして江戸時代には、こんなふうに地方の垣根を越えて日本の様々な技術は伝承されていたのですね。普段着として着られていた染織品がどれもよく似ているのも頷けますね。

 

でもこれだけでは、会津木綿は「松坂木綿」と「伊予絣」を足しただけの類似品みたいになってしまいますが、それも違うのです。綿花は元々、温かい所でないと育たないので、栽培には苦労したのではないでしょうか、会津は綿花の栽培の北限と言われています。寒冷地の会津で栽培された綿花は繊維が短いため、紡いだ糸は太く短くなり、厚手の生地になります。そのため、西日本の綿織物に比べると、厚手で丈夫で暖かいのが、会津木綿の特徴になりました。白虎隊や新選組で知られる会津の武士達の道着としても最適だったでしょうね。

 

会津木綿

30年以上前の会津木綿。固く、節が多く厚手の紬のようです。

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山田木綿織元さんを訪問した季節は8月の暑い時期だったせいか、厚手の会津木綿に出会う機会はありませんでした。現在、山田木綿さんでは、綿花から糸を染めるまでの工程はされておらず、山形の米沢で染色された糸を仕入れて織られているそうです。染色には、反応染料が多く使われ、草木染めも減りました。

わずか10年前までは、「そこでは綿花を精錬して、糸を紡いでいましたし、あそこに藍甕(かめ)があって、藍染めもしていました。」と仰っていました。その頃なら昔ながらの会津木綿だったのですが、現在はもうどこも作られていないのでしょうか…。

また、現在稼働している力織機は、昭和初期から使い続けている「豊田式力織機」だそうです。トヨタ自動車の創立者、豊田喜一郎の父、豊田佐吉の力織機ですね。

その力織機を持ってしても、「一日一反しか織れない」その一反は一万円。せっかく織った一反を1mに切り売りしたり、洋服や鞄に仕立てたりされていたので、これを着物に仕立てようと一反頂きました。

 

ユーザーの視点から見れば、木綿や麻やウールなどは絹よりも「水に強い」のが利点で、普段着に最適です。素朴で希少な木綿の着物、ぜひ一枚ワードローブに加えてみてはいかがでしょう。