◆「三方よし」私たちのルーツは近江商人です。 ―着物コラム―

しるくらんどは、1990年に市田株式会社の子会社として誕生し、2008年にツカモトコーポレーションの子会社になりました。

この、市田(株)の創始者の市田弥一郎、ツカモトコーポレーションの創始者の塚本定右衛門、両者共に滋賀県五個荘出身の近江商人なんですよ。

 

近江商人とは、今で言うWin‐Winの精神「三方よし」を唱え、現在の商業の礎の多くを築いた事で有名ですね。今回は、歴史ある創始者のお話などをさせて頂きます。その前に簡単に近江商人についてご説明いたします。

 

近江商人とは、滋賀県を拠点に全国へ大規模な行商を行い、特に江戸時代後期に大活躍した商人達です。編笠を被り、道中合羽を翻し、天秤秤を担ぐお決まりのスタイルで、大阪から山口・下関、日本海側を回って北海道へ渡り、帰りは太平洋側仙台を通って江戸へ行き、再び滋賀県に戻る(西回り航路)。各地で仕入れては次の場所で売る。そんな商人が次々訪れるのですから、どれだけ当時の経済や情報を流通させていたかが容易に想像がつきますね。

 

子どものための近江商人図録より

 

しかも江戸時代初期から、すでに海外にも進出しています。西村太郎右衛門という人が御朱印船でベトナムに渡り財を成し国王にも認められましたが、帰国しようとしたら日本は鎖国。帰国は叶いませんでした。

やがてその鎖国を解いた日本は、近江商人のルートである西回り航路、中でも福井県敦賀港に着目しました。鉄道が引かれ、神戸や東京、北海道へと鉄道や船が行き来し、やがてロシアに航路が出来、貿易港として発展しました。

現代に近い所では、ヴォーリズ建築で有名なメリル・ヴォーリズも、日本に帰化し近江八幡に移り住み「青い目の近江商人」と称賛された人ですね。メンソレータム(現在は小林製薬)で有名な近江兄弟社の創始者でもありますね。

 

意外と質素な近江八幡に残るヴォ―リスの住宅

 

更に現代も100年以上続く企業や百貨店、都市開発や流通などの日本の基盤を、草鞋を履いた足で作って行った商人達、それが近江商人なのです。

 

私達は常日頃、ツカモトや市田の諸先輩方から、折に触れ歴史や経験を伺えるありがたい環境で仕事をさせて頂いていますが、それだけではなく近江商人の「三方よし」のDNAが今も受け継がれているのだな…と、よく実感いたします。

 

「三方よし」とは、「売り手よし 買い手よし 地域よし」と知られていますが そのルーツは、比叡山延暦寺を開いた最澄の「忘己利他(自分中心に物事を進めるのではなく周りの人のためになるように進める)」から通じていると言われています。近江商人各家に残る家訓や遺言書の中の、「三方よし」の精神が書かれたとして有名なのが、中村治兵衛が15歳の後継ぎ宗次郎のために記した3mに及ぶ遺言書です。

 

「たとえ他国に出かけても商品の着物が、出向いた先のお客様が気持ち良く着用されるように心がけ、自分の事ばかり計算して高利を望むような事をしてはならない。まず、お客様のためを思って計らう事を優先する。ひたすら商品をお届けした地方の人々の事を大切に思って商売をしなければならない。そうすれば天道にかない、心神ともに健康に暮らす事が出来る」

 

 

簡略致しましたがそこにはこう書かれていました。これが近江商人のポリシーを明確に表しているとされて、後に「三方よし」という言葉が生まれたそうです。

 

実際に地域の歴史に名を残した近江商人も多く、私たちの創始者である塚本定右衛門もその一人です。中でも三代目定右衛門は、明治40年に山梨県の山が大水害で多くの被害が出た時に、多額の寄付と植林事業で復興に尽力し、山は¨塚本山¨林は¨塚本林¨とその名を刻まれ、現在の「山梨県に地域貢献した50人」に選ばれています。また、滋賀県のあちこちの治山治水事業も多く手がけ、碑も多く建てられています。

また、初代定右衛門の五女である塚本さとは、私費を投じて五個荘初の女学校「淡海女子実務学校」を設立したそうです。

 

子どものための近江商人図録より

 

立派な創始者の理念である「三方よし」の精神を私たちも受け継いで、周りの人々を大切にし、お客様を大切に思いながらこれからも頑張ります。

 

ちなみに…

滋賀県五個荘、近江八幡、日野には、今も近江商人の邸宅が保存されており、見学もできます。レトロで味わい深く着物を着ての撮影スポットには最適です。五個荘には近江商人博物館や郷土館もあります。ぜひ一度お立ち寄りください、いい所ですよ。