☆同じ柄を何枚も染める事を可能にした伊勢型紙の発展と歴史 ―着物雑学―

鮫、行儀、通し、万筋と言った繊細な小紋柄を染めるには伊勢型紙が必要です。伊勢型紙は「白子型」「伊勢型」とも呼ばれており、三重県鈴鹿市の伝統工芸用具(昭和58年指定)です。江戸時代、武士や役者など、団体で同じ柄を着る事が出来、大量生産を可能にした伊勢型紙は、制服やユニフォームの先駆けと言えるかも知れません。江戸小紋でも京小紋でも伊勢型紙が使われています。

ところで何故、伊勢なんでしょう?そんな疑問を感じた事はありませんか?

 

色々な型紙小紋。

 

染色補正に従事する私たちも型を彫る事があります。

 

スタッフの作品の一部。

 

今回は三重県鈴鹿市の鈴鹿伝統産業会館へ出向き、職人さんの実演と説明を伺いました。先生は伊勢型紙作家の六谷春樹さんです。

 

ドアや窓やインテリアも素敵な切り絵で飾られていました。

 

・発祥について

今回は今までのブログの中で一番歴史が古いかも知れません。その発祥については様々な説があります。有名なのは室町時代の狩野吉信の、型紙を使う染職人が描かれている職人尽絵ですが、追求すれば更に古いようです。六谷先生のお話も一説かも知れませんが、大変詳しく面白いお話でした。それは「染色」と「紙」の歴史に繋がります。

「染色」は、まだ布の生地が無い古代に、鹿の皮を燻染め(くんぞめ•煙でいぶして染める)したり、麻などの植物繊維をべんがらや泥で染めたりして始まり、偶然、異物や混ざり物で防染された所は染まらない、と学んだ。また、日光が当たって焼けて色が変わる所に、葉などがあればその形が残るのが面白い。などの経験から、「型を使う」事を学んで行った。鈴鹿では、虫食いの葉っぱから始まったという説も残っています。

そして「紙」の歴史も重なってきます。型を彫ったきっかけは、古代の中国で紙の美しい切り絵が上流階級の邸宅に飾られていたのを見た事だが、この時点では染色には使われていなかった。ただ、紙を彫るという文化が入ってきた。はじめは、型を使って染料素材を吹き付け、吹き絵にしたものが正倉院に残っているらしい。

 

紙は中国から書物として伝わり、製法も610年頃に伝わったとされています。お隣の松阪には、和紙で財を成した有名な松阪商人の小津家もありますし、岐阜の美濃和紙、京都の黒谷和紙、奈良の吉野和紙など、紙を製造する地域が周辺にたくさんあった事も影響しているようです。余談ですが、三重県の伝統工芸品には「墨(鈴鹿墨)」もあります。こちらも伊勢型紙との関係で発展したそうです。

 

墨作りの実演もされていました。

 

・武士の世界で発展

型染めは、戦国時代に何十枚何百枚と、同じ家紋の入った旗がありますね。「同じ柄を何枚も染める」事が出来る型染めがこの頃にはすでにあったようです。江戸時代、上流階級は織物を着ていたそうで、染物は武士の階級で発展しました。藩ごとに同じ裃を着る武士の間で、倹約令で柄物が着にくい背景もあり、無地に見えるがよく見たら柄がある、伊勢型紙の小紋は発展して行きました。他にも巫女や歌舞伎役者の衣装など、実用性のある衣装の分野で欠かせなくなりました。

 

 

・紀州藩の独占

江戸時代は、「藩専売制」と言って、諸藩が財政困窮を解決するための手段として、領内における特定商品、あるいは領外から移入される商品の販売を独占する制度がありました。伊勢型紙は徳川御三家の紀州藩の専売事業として手厚い庇護を受け、勝手に作ったり売ったりすることは許されず、職人は歯向かえば罰則もあったようです。それで伊勢で発展したのですね。

 

 

1829年にはシーボルトが数千枚持ち帰ったと言われていますし、イギリスのウィリアムモリスも大量に持ち帰り、産業革命に影響を与えたようです。こうして明治には海外にも売れ、伊勢型紙は世界に市場を広げて行き、第二次世界大戦後までは、分業も成り立ち、職人さんもたくさんおられたようです。

 

・工程

わかりやすく分けると①紙を作る②彫る③補強する の、三つの工程に分けられます。その一つ一つが丹念で高度な技術によるものです。

 

工程は詳しく展示されていました。

 

①紙を作る・・・型地紙

1、法造り(ほづくり) 200枚から500枚の和紙を重ねて寸法に裁断

2、紙つけ 三枚の和紙を柿渋でベニヤ板に張り合わせる

3、乾燥 桧の板に張り、天日干し

4、室干し(むろがらし) 燻煙室に入れ、一週間いぶす

5、2〜4の工程を再び繰り返す。

こうして強く伸縮しにくく水にも強い型地紙になります。

 

② 彫る

型を切る事を「彫る」と言い、大きく分けて四手法あります。

・ 縞彫り 1cm幅に最高11本もの直線を彫る事もあるそうです。

・ 突彫り 刃先1mm〜2mmの小刀で垂直に突くように、かつ絵を描くように、彫ります。

・ 道具彫り 刃自体が花、扇、菱などの形に造られた彫刻刀を使って彫ります。道具造りから始まり、道具の出来栄えが作品を左右します。

・ 錐(きり)彫り 刃先が半円形の彫刻刀を垂直に立て、回転させながら孔(あな)を彫っていきます。鮫や行儀など、小紋に代表される彫り方で、1cm²に100個、3cm²に900個もの孔が彫られた作品もあるそうです。

驚いたのは、彫り師の職人さんが彫る道具も御自分で作られていることです。六谷さんも、道具の作り方を詳しく説明して下さいました。

 

刃先作りは鋼を焼くことから始まります。

あっという間に美しい切り絵が。

 

③ 補強する・・・糸入れ、紗張り

空洞が多い型紙は不安定で弱いので、補強をします。糸入れは地紙の段階で絹糸を張り、柿渋で張り合わせる方法ですが、現在は出来る人はほとんどいないそうです。

 

戦後までは道具作り、定木作りなど、各専門の職人さんが分業でされてましたが、現在は工房(家庭)ごとに御自分で多くの工程をされている職人さんも多いようです。

 

・型を彫る時に必要な“つり”

型を彫る時に忘れてならないのは、空洞は抜け落ちるということです。例えば、「国」という字は、「口」の段階で中味が落ちては、彫れなくなります。それを踏まえて、美しい切り絵が彫られて行きます。

小紋の型紙のデザインは菱形から作る事が多く、青海波→七宝→亀甲のように、菱形から幾つも作れるそうです。

 

 

また、書体は毛筆体にすると、自然につながりや隙間を作れるので彫りやすいのだそうです。そもそま日本の文字や書道の文字が彫りやすい形状だったのですね。でも、どうしても繋がりがない場合は、作らなければなりません。それを「つり」と言います。現代は紗張りやシルクスクリーンがあるのでつりを入れなくても落ちませんが、古い伊勢型紙には唐草模様など、つりがあるそうです。そしてそのつりの入れ方も味になり、職人さんのセンスが光る部分でもあるのだそうです。

 

鯉の周りにつりが入っています。

 

昔は同じ柄を何枚も染める大量生産は型染めにしか出来ませんでしたが、プリントやコピーが生まれ、時代の進化とともに需要が減って行きました。が、職人さんが保存会を結成し、地元の子供達にも体験や指導をされたり、また美しい切り絵として世界中にファンがいます。是非一度、現物をご覧になってみて下さいね。