♦丹後ちりめんにはドラマのように感動的なヒストリーがあるのです。(前編) ―着物コラム―

【前編・日本最大の絹織物産地になった理由】

 

ブログは今回で102回目になります。これまでに日本各地の様々な染物・織物を紹介したり、京都の染めや織りにまつわるお話を書いたりして参りました。ここで満を持して「丹後ちりめん」について語らせて頂きたいと思います。丹後とは、京都府北部の地域で、日本三景にも数えられる天橋立が有名です。

 

 

丹後は、国内に流通する絹織物の6〜7割を製造する日本最大の絹織物産地で、丹後ちりめんは後染めに使われる精練された柔らか物の丹後の白生地の総称です。その歴史は古く、元明天皇まで遡りますが、「丹後ちりめん」が作られて規模が拡大したのは300年くらい前なんですよね。そこから昭和の高度成長期(1955年(昭30)〜1973年(昭48))に爆売れするまでの200年余りの間、次々に降りかかる試練を次々に乗り越えて、どんどん発展して運搬用に鉄道まで引いて、その波乱のストーリーはまるで連続ドラマのようです。

高度成長期にはデパートでも呉服がたくさん売られて華やかな時代だったようですが(ブログ「着物でお出かけしてみよう!使える工夫のアレコレ実践編」では、その時代のデパートの呉服売り場の展示を紹介しています)、生地が無ければ着物は作れませんから、丹後ちりめんはまさにその立役者だったと言えるでしょう。

 

現在はかなり縮小していますが、今も絹織物は丹後の重要な産業です。

また、当時の面影が保存された町並みなど、歴史と文化が平成29年に「300年を紡ぐ絹が織り成す丹後ちりめん回廊」として日本遺産に認定されています。

 

ちりめん街道には当時の建物が保存されています。

 

そのくらい壮大なスケールのストーリーを短いブログにまとめるのは大変ですが、今回もいろいろ織り混ぜながら書いたので、どうしても一回には納まらず、不本意ながら前編後編の二回に分けました。クライマックスは後編です。同時に公開していますので引き続きお楽しみ下さい。

 

 

★ 丹後ちりめん歴史館を訪ねる

 

丹後ちりめんのことを詳しく知るには与謝郡与謝野町の「丹後ちりめん歴史館」がおすすめです。織物会社の跡地に、三角のノコギリ屋根の建物、機械もそのまま展示され、製造工程も詳しく解説されています。訪ねるのは今回で三度目です。ノスタルジーに溢れているのでそれほど興味の無い方も映える写真が撮れますよ。

 

手機から機械まで当時の状態が見られ、買い物も楽しめます。

 

★ 丹後ちりめんの特徴

 

有名なのは、緯糸に強い撚りをかけた強撚糸を左撚り2本右撚り2本と交互に織り込む事で大きい「シボ」を作る、通称「鬼シボちりめん」。それを織るために開発された「八丁撚糸機」も丹後ちりめんの特徴の一つと言えるでしょう。

 

鬼シボと呼ばれる古代縮緬。

古代縮緬に撚りをかける八丁撚糸機

 

また、生地に立体的に様々な模様を織り込んだり、デザインも豊富で、織り上がった生地を精練(ブログ「先染め(先練り)・後染め(後練り)とは前編」)するので白く柔らかい風合いがあります。そのため染色もよく染まり、発色も綺麗で、光も乱反射するのでツヤもあり、絹の良さや美しさを最大限に引き出した織物です。

種類は大きく8種類(古代縮緬・変り無地・五枚朱子(どんす)・紋意匠・縫取・金通し・紋綸子・絽縮緬)に分けられていますが、細かく分類すると無限と言えるくらい新しいデザインが次々と生み出されています。他に類を見ないその美しい天然の織物は世界中で愛され数々の賞も受賞しています。現在では、繭から得られたセリシン(タンパク質)を化粧品や食品に加工するなど、様々な新しい研究も進んでいます。

 

 

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★ 代表的なエピソードは「丹後ちりめん誕生のきっかけ」

 

着物に関する本などには、丹後ちりめんの事はよく登場しますが、その場合、歴史はあまり詳しく書かれていません。発祥だけを取り上げて紹介されている事が多いのですが、よく調べてみると実は天国と地獄を何度も行ったり来たりするような苦難の連続の歴史がありました。

 

★ ヒストリー

 

丹後地方は湿気が多く、雨や雪による災害も多いため農業には不向きですが、絹織物は乾燥すると糸が切れてしまうので湿潤な丹後は最適な環境です。ですから奈良時代にはすでに品質の良い絹織物が織られていました。始まりは日本の織物の一番最初まで遡ります。応神天皇(16代)の時代に二人の使徒が呉の国(中国)に渡り、染めと織りの技術を我が国に導入するため、四人の技術者を連れ帰ります。そうして染織、呉服が伝わりました。(諸説ありますが、大阪府池田市の呉服神社参照・またいずれブログでご紹介しますね)そして711年には元明天皇(43代)が、高級織物の錦綾の織り方を指導する役人の挑文師(あやとりし)を21の地域に派遣した際に丹後にも伝わったようです。

739年には丹後で織られた絁(あしぎぬ)が聖武天皇に献上され、現在も正倉院に保存されているそうです。南北朝時代の書物には、「丹後精好」という高品質な織物としての記述がありましたが、江戸時代に西陣で御召しが誕生すると、「田舎ちりめん」「田舎絹」と言われて売れなくなってしまいました。

 

さらに1680年・81年の「延宝の大飢饉」では、雪が10月から2月まで降り続き、25%の家屋が倒壊し、半数以上の牛が死に、一万五千人弱の人々が餓死し、極限状態に。そこへ1717年に再び、「享保の大飢饉」が襲います。最悪です。

元々、農作物が出来にくい地域のため、人々は生きるために絹織物に目を向けました。そこで四人の男性が行動を起こします。

 

1719年、打開策を求めて峰山の絹屋佐平治が当時の大機業地であった西陣に奉公に出ます。目的はちりめんを織る技術を丹後に持ち帰るためです。同じ頃、加悦谷でも木綿屋六右衛門が、手米屋小右衛門と山本屋佐兵衛を交流ある西陣の織物業に派遣して四年かけて技術を学ばせます。しかし当時の西陣の機織り技術は門外不出の重要機密でしたから、そうやすやすと教われるものではありません。特に峰山の絹屋佐平治は、大変な苦労をしてまるで盗むように技術を取得しました。

 

 

彼らは習得した「撚り」や「シボ」の技術を町の人々に惜しみなく伝授し、瞬く間に丹後一帯に広まり、女性も子供も働いて、わずか6年後には京都に取引問屋が5軒も出来たそうです。絹屋佐平治たち四人は、丹後ちりめんの始祖、丹後を救った人として崇められ、現在でも5月には「始祖慰霊祭」、秋には「織物始祖祭」が行われているそうです。

 

本やパンフレットに登場する有名なエピソードはここまでですね。丹後ちりめんと言えば絹屋佐平治、私もそこまでしか知りませんでした。ところが本当の戦いはここから始まるのです。物語はまだ起承転結の「起」、後編ではクライマックスを含む「承転結」をお届け致します。引き続きお楽しみ下さい。