♦丹後ちりめんにはドラマのように感動的なヒストリーがあるのです。(後編)ー着物コラムー

【後編・苦難を乗り越え業界を牽引した白い生地】

 

前編の続きです。あらすじは、大飢饉に何度も見舞われ、農作物の穫れない丹後は壊滅寸前。1719年に絹屋佐平治他三名の男性が西陣でちりめんの織り方を習得して持ち帰り丹後の人々を救った。こうして丹後ちりめんが始まった、という所からでしたね。

 

1730年、西陣大火が起きて西陣の織機7000台のうち3120台が焼失しました。ブログ「西陣の栄華の象徴“千両ヶ辻”で見つけた金の糸とは」で紹介したように、当時の西陣は一日で千両(一億三千万円)ものお金が動くくらい栄えていたので大打撃です。が、丹後はこれにより大きく発展しました。ちりめんを運ぶ「ちりめん飛脚」が列をなし、帰りは大金を持ち帰りました。絹屋佐平治が西陣に出向いてからわずか10年後です。

ちりめん街道

ちりめん街道

丹後ちりめんの急成長に西陣側が、幕府に地方絹の流通量の制限を何度も願い出たため、1744年に受理され、制限令が発布されました。さらに1787年、1793年には寛政の改革がなされ、質素倹約令により、京都の絹問屋が閉鎖されました。

峰山藩の方では、機業が主産業であったため保護する政策が取られましたが、加悦谷の属する宮津藩では農耕の副業としか見なされていなかったため、機業停止の弾圧を行なったり、機一台ごとに重税をかけて許可制にするなどして、民衆を苦しめました。そのため1822年には丹後最大の百姓一揆「文政一揆」が勃発、民衆は勝利しましたがたくさんの人が命を落としました。

さらに1830年の天保の改革では、ちりめんの販売が禁止されてしまいました。峰山藩と宮津藩は、丹後一帯の機屋を組織化するなどいろいろ策を講じて乗り切ります。

やがて1840年には丹後ちりめんはいつのまにか、日本の織物の一、二位を争うほどの生産量に成長していました。

明治になると絹織物は、日本の海外への重要な輸出品として手厚く保護され、丹後ちりめんは1837年を皮切りにドイツ、フランスと、各国の万国博覧会に出品され、いろんな賞を受賞しました。

1894年(明27)には丹後最大のちりめん工場となる西山第一工場(手米屋小右衛門生家)ができました。1900年にはジャガード普及、紋紙導入、1904年には西山第2第3工場が、ドイツ製の発動機とスイス製の力織機を導入して増設されました。皆さんお気付きでしょうか?ここでやっと機械や動力による製織がスタートするわけです!これまでは手で織っていたのですよ。紬や木綿と違って細く白い(もつれやすく切れやすくあまり進まない、汚れると目立つ)、しかも強撚糸(扱いづらいはず)を大量に織るという事は、相当な技術力が必要だったでしょう。

西山第一工場

西山第一工場

ちりめん発祥の地の碑がありました

ちりめん発祥の地の碑がありました

紋紙で作られた栞

紋紙で作られた栞

そして1926年(大正15年)には、丹後ちりめんを輸送する事を主目的として住民823名の出資により「加悦鉄道」が開業されました。

 

 

 

加悦鉄道の駅舎

加悦鉄道の駅舎

加悦鉄道の汽車

加悦鉄道の汽車

 

★ さらに降りかかる災難

 

さあ、これからだ!という翌年の1927年、北丹後地震が襲います。8割の織機が損壊し、峰山では9割以上の家屋が焼失し、町民の2割に当たる千人が死亡しました。この時はちりめんが好況だったのもあり、政府や銀行、京都の問屋などの資金援助で復興したそうです。そして1928年には国家検査制度、1933年には押印制度が制定され、品質向上し、絹織物高級ブランドとしての地位を確立して行きました。

反物や帯揚に刻まれた丹後ちりめんの印。左下の印には、丹後峰山精練と印されています。

今度こそ、さあ、これからだ!という時に1937年太平洋戦争勃発により、1950年代(昭和30年代)まで生産販売できなくなってしまいました。

 

ですが、戦争が終わるといよいよ高度経済成長期(1955ー1973頃)です。丹後では町中でガチャガチャと機を織る音が鳴り響き、ガチャと一回織れば万単位で儲かるので「ガチャマン」と言われ、1973年には2200億もの生産高を記録し、頂点に達しました。

 

しかしオイルショックから不況になり、1974年生糸一元化輸入措置が発動され原材料である生糸が高騰し、丹後ちりめんは追い込まれます。国内の養蚕を保護するために価格を上げた策でしたが、それにより国外の安価な生糸が市場に出回り、増加して行きました。韓国産の絹織物の輸入も急増し、丹後ちりめんは大不況、失業や倒産が相次ぎました。

 

★ 苦渋の決断・悲しみの「はたべらし」

 

そして行われたのが「はたべらし」という共同廃業です。

組合から補償が支払われ、全体の12%に当たる4827台の織機が1264軒から出されて破砕され、道路は鉄くずでいっぱいになりました。それまで何代にも渡って生計を支えてきた織機を町中で共同廃棄しなければならない、機織りを手伝っていたのは女性や子供も多く、号泣したそうです。どんなに悲しく不安だった事でしょう。良い物を作ろうと一心に励んできた職人は、道を閉ざされた思いだった事でしょう。

ですが、はたべらしはその後1987年までほぼ毎年のように行われ最終的に14838台もの織機が破砕されたそうです。お金を出し合って開通した加悦鉄道も、1985年に廃止されました。

廃線跡の道

廃線跡の道

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これが短くまとめたヒストリーです。

丹後ちりめんの歴史は、そのまま着物(和服)の歴史であり、大きく捉えると日本の歴史でもあるような気がします。日本は農耕民族ですが、どうしても農作物が育たない丹後のような地域の人々が、生きるために織物を生業としてきたのも日本の歴史の側面ですし、織機から自動車などへと、工業の分野でも多くの影響を与えています。そうした日本の発展の歴史は、丹後の人々が「絹を織るのをやめなかった」からだと思うのです。

丹後ちりめんは、最初から日本最大の絹織物産地だったわけではありません。何度も災害にあったり、悪政の弾圧にあったりして戦いながら、織り続けてきたのです。それは、着物を作る工程上スタートのポジションに当たる白い生地ですから、苦難も最初に受けますが、後に続く工程作業の人々にバトンを渡さなければならない責任と使命感が背中を押したのではないでしょうか。

日本遺産に認定された「300年を紡ぐ絹が織り成す丹後ちりめん回廊」には、歴史も含めてたくさんの景色が含まれているのですね。その中には繁栄して華やいだ町の様子もあり、ちりめん街道ではその面影を見る事ができます。映えスポット満載の風光明媚な丹後の町を皆さんも是非一度訪れてみて下さいね。

旧尾藤家住宅

ちりめん問屋から銀行頭取、鉄道会社社長も務めた尾藤家では和洋折衷の近代建築が見学できます。

ちりめん問屋から銀行頭取、鉄道会社社長も務めた尾藤家では和洋折衷の近代建築が見学できます。

 

丹後ちりめんは現在は縮小したものの、地域の人々や染色関係の人々、そして日本人にとって大切な産業であることは間違いありません。素晴らしい絹の白生地と、丹後ちりめんの物語がいつまでも受け継がれて行きますように…